2016年9月 6日 (火)

2つのギターコンクール

Img_0001_2◆7月3日の第41回ギター音楽大賞、8月6日の第43回日本ギターコンクールと、伝統ある2つのギターコンクールを見せて(聴かせて)いただいた。
*ギター音楽大賞の方は、猪居先生よりご招待をいただき大変ありがたかった。

◆いずれのコンクールとも、永年その成長ぶりを見てきた、村治昇先生の二人のお弟子さんがそれぞれ出場するということで、楽しみに出かけて行った。

◆結果はどうであったかというと、幸い出場した2人は、それぞれ3位入賞と最優秀賞という素晴らしい成績を上げ、ほっと胸を撫で下ろすこととなった。

◆ギターのコンクールというものをじっくり聴くなどということは、私にとってはめったに経験することではないが、今回の2つのコンクールを見ていろいろなことを考えさせられた。

◆まずは、今回いずれのコンクールも例年に比べ非常にレベルが高かったとのことであるが、自由曲に限っていえば、入賞した人たちの演奏が、現在プロとして活動している大方のギタリストの演奏よりもはるかにレベルが高く驚かされた。

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◆彼らにとってコンクールとはこれから目指していく世界への登竜門であり、一度きりの真剣勝負なのである。この2つのコンクールの出場者からは当然のごとくその気迫というか真剣さがひしひしと伝わってきた。特にギター音楽大賞の方は、関係者の方々によると例年になくハイレベルの戦いであったとのこと。私としても入賞した3人の出場者の演奏には、技術、音楽とも心底感動させられたし、プロといわれるギタリストの方々の演奏もせめてこれくらいのレベルであってほしいと思ったほどである。

◆コンクール出場者のレベルがこれほど高くなると、本選審査中に行われるゲストの演奏のことが問題になってくる。ギター音楽大賞の方は谷辺昌央氏が登場し、武満徹のフォリオスとギターのための12の歌から4曲(全てビートルズ作品)を演奏。
この時の谷辺氏の演奏は、コンクール出場者たちが目指すべき方向性を指し示す、さすがに素晴らしいものであった。私としてもこれほどの武満作品の演奏を聴いたのは初めてといってよい。

◆では日本ギターコンクールの場合はどうであったか。超ベテランの佐藤紀雄氏が登場し、同じく武満徹のフォリオスのほか、ヴァスケスのソナタ2番、ヴィラ=ロボスの練習曲7番と前奏曲3番を演奏した。しかし、個性的ではあるもののその演奏はたいそう雑で、残念ながら出場者たちの範となるべく演奏とは言い難いものであった。

◆こうなってくると、コンクールにおけるゲスト演奏者というものも少し考えなくてはならないのではないだろうか。コンクールに出場してくる人たちのレベルは今後益々上がってくるであろうが、私たちとしてはコンクールの出場者が仰ぎ見るような演奏を容赦なくゲスト演奏者には求めてしまう。今後はプロと呼ばれるギタリストの方々も、どんどんいばらの道を歩まねばならなくなってくることだろう。

◆最後に2つのコンクールの審査員の方々に感謝申し上げたいのは、審査結果がとても公平だったことだ。このようなコンクールには何か先生方の思惑のようなものが、何らかの形で出てくるのか、という思いも多少あったが、そんな思いはまったくの杞憂であった。いずれのコンクールも非常に厳正かつ公平であり、その結果には誰もが納得させられたのではないだろうか。特に日本ギターコンクールの、珍しくも2位該当者なし、という審査結果は、審査員の方々の見識と良識をはっきりと示す大変正しい判定であったように思う。

2016年9月 5日 (月)

福田進一&ジェレミー・ジューヴ

Img◆先週の土曜日8月の27日は、大阪のフェニックス・ホールにおけるフランスのギタリスト、ジェレミー・ジューヴと福田進一氏のジョイントリサイタルへでかけた。

◆ジューヴは武満徹とM.デュプレッシーという聴き慣れない作曲家の現代作品ばかりを演奏した。もっとも現代作品とはいっても武満徹の「ギターのための12の歌」(の内3曲)も含め、大変調性的かつ旋律的な作品が多く、退屈をしなくて済んだ。ただそれらがみな芸術的に高い価値をもった作品とは思えなかったが。

◆武満徹の「ギターのための12の歌」にしても、私はいまだにこの作品をクラシック音楽のコンサートで仰々しく取り上げて演奏することに違和感を覚える。それだけ納得できるような演奏にお目にかかれていない上に、武満徹自身がそんなことを望んでこの作品を書いたのだろうか、という思いも捨てきれないでいる。

◆ジューヴはしっかりした基礎技巧と音楽性を併せ持ったギタリストで、非常に端正な演奏を繰り広げるが、昨年のマルシン・ディラのような凄味や風格はまだ乏しく、なんとなく「ギターの上手な好青年」といった印象にとどまる。

◆それに対し、休憩をはさんだ後の福田進一氏の演奏には、ただ上手く弾くだけではない芸術家としての風格すら感じさせるものがあった。

◆演奏された作品はタレガの「椿姫による幻想曲」とブローウェルの「ソナタ第5番」(日本初演とのこと)の2曲。
椿姫の幻想曲については原曲であるアルカスの作品にタレガが少し筆を加えたものらしいが、タレガといえどもアルカスの原曲より優れたものになっているのかどうか。どうせ大して芸術性の高い作品でもない。いっそアルカスの原曲を取り上げた方がすっきり三流っぽさが出てよかったような気もする。
ブローウェルのソナタについては、当の福田氏はトークのなかで、何十年後かにはスタンダードになっているであろう、というようなことを言っておられたが、聴いている現在の聴衆(私のこと)にとっては、無くなっても一向に構わない作品群に入れても一向に構わない、という印象であった。今後、もしこの作品が無くならずクラシックギターのスタンダードとなる日が来たら、その時にもう一度聴いてみましょう。いまのところは少しばかりご遠慮させていただくこととする。

◆当夜の白眉はなんといってもソルの二重奏曲、幻想曲「二人の友」作品41。常設ではないギタリストのデュオということを考慮に入れなくとも、当日の演奏は本当に素晴らしかった。あらゆるタイミングがビタリと合うだけでなく、二人の音楽も充分に競い合い、そして寄り添い、まさにソルとアグアドの二重奏を彷彿とさせる美しい演奏であった。これほどのギターデュオはめったに聴けるものではない。これを聴けただけでも当日会場に足を運んだだけの価値は充分あったように思う。

◆それにしてもこのシリーズの名称<福田進一と仲間たち>だが、なんとなく<福田進一とその他大勢>というように聞こえてしまうのは私だけであろうか。こういう使い方はジャズなんかの世界ではよく使われるのだが、それにも私はいつも違和感を覚えてきた。もう少し違った呼び方はないものだろうか。

2016年9月 3日 (土)

ダ リ 展

Img_0002◆昨日、ダリ展に行ってきた。
場所は京都の岡崎公園内にある京都市美術館。

◆サルバドール・ダリの作品は随分昔から好きで、というより興味があってといったほうが実態に近いかも知れないが、今までもいろんな作品を見てきたつもりだった。それでもそのダリの本物を見るのは今回が初めて。

◆ダリの作品として決定的に有名なものの数は少なかったが、そのかわり普段は見ることができないものを数多く見ることができた。

◆目で味わう芸術は、音楽よりもその個性を発見することがはるかに容易と実感する。
そして芸術家であるためにはこれほどの個性が必要なのだろうかと恐れを感じるほど。

◆ただ、音声ガイドが竹中直人だったことにはまったくがっかりさせられた。彼の芸風なのであろうが、必要以上に大げさな言葉使いや変におちょくっているような言い回しが目立ち、いたずらに真実味が薄れることとなって、大いに興を削がれる思いを抱かれた方も少なくなかったのではなかろうか。あきらかにミスキャスト。しかし「狂気性」とか「異常性」という面で捉えれば共通点が見いだせるのかも知れないが。

◆京都市美術館でのダリ展は明日、9月の4日(日)で終了。その後は東京で14日から開催とのこと。

2016年7月23日 (土)

井谷 光明ギター・リサイタル

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◆昨日、井谷光明なるギタリストのリサイタルを聴かせてもらうため、吹田市にあるメイシアターまで出かけていった。
このギタリストは現在、ドイツ国立フランツリスト・ワイマール音楽大学大学院に在学中で、トマス・ミュラー=ペリング氏に師事しているとのこと。

<プログラム>
アルカス:椿姫の主題による幻想曲
バリオス:ワルツ 作品8の3
レゴンディ:序奏とカプリス、ノクターン
バッハ:シャコンヌ
ジュリアーニ:ロッシニアーナ 第1番

◆私はこの人の演奏は初めてなので、この時の演奏がこの人のベストのものなのか、あるいはそうでないのかは判断できないが、内に大変優れたものをもっているギタリストであることは理解できた。
まずギタリストとしては欠かせない音が大変美しい。爪の音や弦をこするような雑音はほとんど見られないし、演奏する作品に対し非常に丁寧に接し、慈しむように大切に大切に演奏しているように見える。また細かく素早いパッセージも難なくこなすテクニックも備えている。

◆しかしながら、今回のリサイタルでは残念な部分が多く前面に出てしまったようであった。
では何が残念だったのか。
まず第一に全体的に音量が小さい。勿論当日は小さなホールなので、敢えて力む必要はないのだが、小さな音がたいそう美しいだけに、もう少しフォルテの部分が強調されてもよかったのではないだろうか。つまりもう少しダイナミックレンジがほしいということ。さらにはもう少し音色の多様性も求めた上で、いまひとつ何か切れ味のようなものを感じさせてほしいことである。特にプログラムがヴィルトゥオジティの高い作品ばかりだったのでなおさらである。聴く者に向けて音楽を放射するというか、音楽を輝かしく発散するというか、聴く者に迫ってくる何かが足りないように私には思えた。
また緊張の持続が困難であったのか、時として左指が指板の上を泳ぎ、音楽が途切れ停滞してしまうことがしばしば見られた。特にレゴンディの最初の曲で何とも自信無さげに見えたのは、彼としては大変な損であった。
さらにはこのギタリストの表現したいもの、敢えて個性といってよいのかもしれないが、そういったものが私たちに届いてこなかったのも残念であった。

◆つい先日はギター音楽大賞というコンクールを拝見させてもらったのだが、それらに限らず最近の日本のクラシックギター界のレベルの高さには目を見張らされるものがある。そういったことを思うと、大変優れた素質の持ち主であるだけに、今回のようなプロとしてのコンサートに関しては、どうしても辛口にならざるをえないことをお許し願いたい。

2016年6月24日 (金)

ギターのための12の歌/オスカー・カセレス

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◆レコードの棚を前にして、何か古いLPはと考えていると、これまでめったに聴いたことのないオスカー・カセレスというギタリストのLPレコードが目に入った。購入したのは30年以上前だったような気がするが、聴くのはおそらく今日で2回目か3回目だろう。
例の如く録音年月日も録音場所も、さらには録音スタッフの名前も何も記載がないというまったくいい加減なLPだ。こういうレコード(記録)を制作している人たちや会社は「記録」というものをどう考えているのだろう。不思議で仕方がない。
帯には日本語の文字が見えるが、このLPはベルギーにあるパヴァーヌ社によって制作され、日本のアポロン音楽工業(株)という会社が輸入販売していた。この企画では他にも何枚か国内販売されたようだが、長くは続かなかったところをみると、あまり利益を生み出すところまではいかなかったのだろう。なかなか渋い企画で、ギター関係者としてはぜひ続けてもらいたかったのだが。

◆ところでこのオスカー・カセレスというギタリスト、自身はウルグァイ出身で1928年生まれ。主にフランスで活躍しており、同じくフランスを活動拠点としているトゥリビオ・サントスの師匠でもある。他に何枚かのレコードを出しており、中には弟子であるトゥリビオ・サントスとの2重奏のレコードも何枚かある。
私はこのLPの他にはあと仏エラートから発売された〝ギター音楽の展望”と題されたシリーズの中の2枚(計3枚)しか持っていないが、解説にはいずれも輝かしい様々な業績が綴られている。

◆このレコードを入手したころは、現在と違って、まだこの武満 徹編曲による「ギターのための12の歌」はそれほど一般的にはなっておらず、国内における実際のコンサートで聴かれることはあまり多いとはいえなかった。ましてや12曲全曲ともなると皆無だったように思う。

◆最初レコード店の棚にこれを見つけた時はワクワクするほどの期待感を感じたが、実際に買って帰り聴いてみた後の感想はどうかというと、まったく意外なものであった。それがさきほど述べた、聴くのは今日で2回目か3回目・・・というところに繋がる。

◆原因がギタリストの技量にあるのか、それとも作品自体の芸術性というか完成度にあるのか、いずれにしても、演奏でいえばかっちり弾けてはいるのだが、何しろ最初から最後まで覇気がないというか切れ味がとぼしいというか、音色の変化も曲に馴染んでおらず、すべてにわたって面白くない。これについては同氏のレコードいずれにも共通することで、なんともテクニックに冴えがない。解説にうたわれているような輝かしい業績が本当なのかと疑いたくもなってくる。この人の場合、演奏家というよりも教育者としての実績を評価した方が正しいのかもしれない。
また作品自体でいえば、今日のこういった作品たちの先駆けをいくものだが、和声の使い方がどうも武満 徹らしくなくて、聴いていて少しイラッとするところがある。この中に含まれるいくつかの作品についていえば、昔のことだけれども、私の友人がもっと洒落た編曲をしていたことがあって、編曲としてはどう贔屓目に見てもそちらの方に軍配を上げたくなる。今時、国内だけをみても、もっと優れた編曲をされる方が何人かおられるに違いない。

◆といろいろ回想しつつLPの裏表をじっくり聴いてみたが、残念なことにやはり当時となんら感想は変わらなかった。しかし、スピーカーから聞こえる小さなスクラッチノイズと、少しだけ昔のことを想い出しながら飲むコーヒーはなかなかうまいものであった。ブリームやジョンなどのバリバリ、完璧な演奏を聴くだけがギターの楽しみ方ではありませんね。

◆武満 徹の作品の他、ブローエルの3つのキューバ民謡(グェヒーラ・クリオージャ、、魅惑の瞳、子守歌)が収録されている。

2016年6月23日 (木)

若きホセ・ルイス・ゴンザレス

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◆このレコードは、米CBS傘下オデッセイレーベルから発売された廉価版LPで、もう30年以上前に購入したもの。
録音日時等については何の記述もないが、演奏している曲を見ると、恐らくはホセ・ルイス・ゴンザレスがギターの世界から一度遠ざかる以前の録音ではないかと思われる。
いたるところにセゴヴィアの影響がうかがえるが、ゴンザレス晩年のスタイルとは異なり、溌剌として元気いっぱいなのがほほえましく感じられて大変うれしい。

録音場所についてだけはオーストラリアにてと解説中に記述があるが、それはゴンザレスが一時期オーストラリアに住んでいたことと、もうひとつレコード中で演奏している「ギターのためのミュージカル・ピクチャー」という作品を作曲したERIC LIBAEKという作曲家がオーストラリアに住んでいた(生まれはノルウェーのオスロ)ことが無関係ではないだろうと推察する。

◆収録されている作品
①ポンセ:6つの前奏曲
②ポンセ:主題と変奏と終曲
③テデスコ:トナディーリャ(Andres Segoviaの名による)
④Libaek:Musical Pictures for Guitar
⑤タレガ:6つの前奏曲
⑦タンスマン:マズルカ
⑧ヴィラ=ロボス:ショーロ No.1
⑨バリオス:古きメダリオン

◆こうしてみてみると、④⑧⑨を除くと、他は全て師匠であるセゴヴィアから今まさに教えを受けたばかり、あるいは今受けている最中、という気がするではないか。
正直なところ、私はこのホセ・ルイス・ゴンザレスの演奏、晩年のものよりずっと好きですね。

2016年6月20日 (月)

クリストファー・パークニングのLP

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◆若い世代の人たちの間ではそんなことはないのであろうが、私たちのような世代にとっては、今日本だけでなく世界に目を向けてみても、胸躍るような演奏を聴かせてくれるクラシック・ギタリストにはまったくといってよいほどお目にかかれない。コンサートだけでなくCDにおいてもしかりである。要するに今どきのギタリストの演奏にはちっともワクワクしないのだ。

◆個性に乏しい、といってしまえばそれまでだが、昔のことを思えば現代のギタリストの技術的な進歩には目を見張るものがある。ギターの神様とまでいわれたセゴヴィアですら、テクニックだけみれば、もはや現代の若いギタリストたちの足元にも及ばないだろう。今ステージプロとして活躍中の若手、中堅ギタリストの方々も、コンクールの度にどんどん進歩したテクニックをもったギタリストが次々と登場し、いつ自らの足元をすくわれることになるかと不安にかられているのではなかろうか。不本意ながらいつ単なるギター教師で満足せざるをえないことになるか戦々恐々としておられることと推察する。(ご同情申し上げる)

◆新しい潮流が生まれ、それまでのものを駆逐するなどということは、いつの世も、またどんな世界、ジャンルにも当てはまることで、避けては通れないこととは知りつつ、なんとも最近のギター界の退屈なことか。いきおい自宅においてアンプのスイッチをONにしCD棚の前に立つ時、クラシックギターを選ぶウェイトは下がる一方、むしろゲップがでるような思いに駆られるときすらある。現に普段自宅で触手の伸びる音楽といえば一般音楽が多く、ギターとなると今では恐らく10%以下ではなかろうか。

◆世界的には何十年か前、今のギターと同じような状況がピアノやヴァイオリンの世界にも見られたが、現代ではもう少し進んで、ギターの世界よりはずっとましになり、楽しい選択肢が沢山ある。

◆従って久しぶりにギターでもとなっても、今どきのものはあまり聴く気にならず、ついこういった古いLPレコードに手が伸びてしまう。
目を閉じてこのLPを聴いていると、若きころのセゴヴィアかと錯覚するほど何から何までセゴヴィアそっくりの演奏が聴ける。
「若きセゴヴィア」といったのは、セゴヴィア晩年の、リズムもアクセントもフレーズもすべて自由奔放、むしろ我儘放題といった方がよいような演奏ではなく、まさに若き頃の溌剌としたセゴヴィアの演奏に近いからだ。近いというよりこのころのパークニングというギタリストは、セゴヴィアの演奏をそっくりそのままなぞることを究極の目的としているかのようだが、セゴヴィアもここまでそっくりに自分を真似た演奏をしてくれればさぞ満足だったことだろう。

◆収録されている作品
A面)
①プレアンブロとアレグロ・ヴィヴォ(A.スカルラッティと偽ったM.ポンセの作品)
②サラバンドと変奏(ヘンデル)
③メヌエット ニ長調(ヘンデル)
④ジーグ(ド・ヴィゼーと偽ったセゴヴィア作品)
⑤パッサカリア(ヴァイス)
⑥神秘な防壁(クープラン)
B面
①ジムノペディ1番(サティ)
②ジムノペディ2番
③ジムノペディ3番
④亜麻色の髪の乙女(ドヴュッシー)
⑤牧歌(プーランク)
⑥眠りの森の美女のパヴァーヌ(ラヴェル)
⑦パゴダの女王(ラヴェル)
⑧ア
フロ=キューバン・ララバイ(伝承曲~ブローウェル作{子守唄」と同一テーマ曲)

◆演奏は、当然バロック(風)な曲を集めながらもまったくバロック風な感じがしないA面よりはB面の方がはるかに良い。録音のうまさもあるが、サティやドヴュッシーなどはオリジナルに決して負けてはいない。演奏の巧みさだけでなく、まさにこれこそ編曲の妙といえるだろう。

◆セゴヴィアそっくりな演奏というのもどうかと思うが、真似もここまで徹底してできれば大したもので、近頃のテクニックしか感じられない、またテクニックしか売り物のないぽっと出のギタリストの演奏よりはずっと・・・・・これ以上はあまり言わないほうが身のためかもしれない。

2016年6月 9日 (木)

復活したベレザール・ガルシア

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◆先月、5月の中頃、ベレザール・ガルシアが突然鳴らなくなってしまった。
それまで張っていた弦(サバレス C.C.)をそろそろ交換しようと、いつものようにまず1弦をはずし、すぐ新しい1弦に張り替えた。そこでどうも様子がおかしいと感じた。それまで張っていた古い1弦よりも、張り替えたばかりの新しい1弦の方が硬くて弾力性がないのだ。
同じように2弦3弦と順に交換していったのだが、すべての弦に渡って同じ傾向。低音弦はずっしり異常に重く反応が鈍い。その上、高音弦はいやらしいほどナイロン臭い音がする上、その音にまったく伸びがない。とくにウルフトーンのあるフレットにくると「ボコッ」というのみでとてもギターの音とは思えない音がする。新しい弦を張り替えたにもかかわらず、張り替える前の古い弦の方が良かったというおかしな状態になってしまったのだ。

◆仕方なくそのまま数日使ってみたが、一向に改善する様子がみられない。「これは不良弦に当たってしまったか?」と考えざるを得ず、もう一度全弦新しいもの(同じくサバレスC.C.)に交換してみたが、結果は変わらず、硬く、重く、反応鈍く、まったく伸びがないまま。そこで弦のメーカーを変えてみることにし、高音弦をハナバッハ(黒)、高音弦をオーガスチン(赤)にしたが、その結果はさらにひどいことになってしまった。

◆もう訳がわからず、今度は普段一番使用頻度の高いハナバッハの緑に全弦交換したのだが、状況はまったく好転する気配すら見せない。

◆こうなるとこれはもう弦の良し悪しではなく、ベレザール本体に何か変化が起こっているとしか考えられない。同じような現象が昨年だったか一昨年にも起こったことがあったが、その時は時間が経過していくうちに自然に治癒していったので、その後あまり気にすることなくきてしまったが、今回はそうはいかない。なんとか原因を探ってみなくてはならない。

◆そこでふと思ったのは湿度の問題だった。今年5月の中頃、弦を交換しようと思ったころ、急に気温と湿度が高くなり、今弦交換しても大丈夫だろうか、と少なからず懸念しつつ交換したことを思い出した。

◆ギターをやり始めて今まで一度もケースに乾燥剤を入れるということはやったことがない。そういった必要性を感じたことがなかったからだ。たとえケースの中に乾燥剤を入れておいたとしても、ギターをケースから出してしまえばすぐに湿気を吸うことになって、結局あまり効果がないのではなかろうか、という懸念もあった。

◆しかしものは試し、ダメで元々、やってみることにした。近くの大型電気店に行って「カメラ、レンズなどの保管用に使用する乾燥剤」を購入し、ギターと一緒に何個かケースに入れて一晩おいてみた。するとどうだろう、さっそく効果が表れた。弦の弾力性が少し戻り、右指に触れる感触も柔かくなってきた。「やはり!」と思い、それからは必ず毎日乾燥剤入りのケースにベレザールを戻すようにした。

◆結果はどうだったか。4・5日経過した昨日には、完全に本来のベレザールの調子を取り戻すに至った。弦の張りは極上に柔らかくなり、軽いタッチで伸びと張りと艶のある音が出せるようになり、めでたく完全復帰した。どうやら温度と湿度が急激に上がったため、一本ずつとはいえ、弦を緩めたときに楽器が一気に周囲の湿気を吸ってしまったとしか考えられない。弦の交換が最悪のタイミングだったようだ。永年ベレザールに対してそういった配慮をしてやらなかったことにベレザールも少しだけすねてみせたのかもしれない。

2016年6月 7日 (火)

トヨタのオーリスHBが来た

P1010885_edited1◆今私の自宅の駐車場には、トヨタの乗用車、オーリス・ハッチバックが停まっている。しかもまだ発売されたばかりの1800ccのエンジンと電気モーターをそなえたハイブリッド車である(まだ数百キロしか走行していない試乗車)。
私の車である、同じくトヨタのアベンシス・ワゴンのエアコンの温度調整が、新車当時からずっとうまく動作していないため、今回改めて調整に出しているのだが、その間の代車ということで、ディーラーが置いていったものだ。

◆次の車として、現在販売されているトヨタの車の中では唯一候補に挙げてもいいかな、と思っていた車だったので、早速昨日・今日と自宅近辺を乗りまわしてみた。もっとも候補に挙げていたのは、同じオーリスの中でも1200cc+ターボという車種(ハイブリッド車を除き、同じオーリスの中では一番燃費が良い車種)だったので少しばかり方向性が違うが、まあそれでも乗り心地やハンドルの操作感、車としての作り込みの完成度などは測ることができると思う。

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◆運転してみた実感としては、思っていたよりもよくできているな、という感想をもった。直進走行時の安定性や加速感、曲がる時の車体のロール、各部分の取扱いのし易さなど、さすがにヨーロッパで並居る欧州車と闘ってきた車だけあって、大変うまくまとめられている。

◆但し残念な部分も少なからずあったことも確かである。性能や操作性、さらには乗り心地といった面については、エンジンの低回転域におけるトルクに少し不足を感じることや、ハンドルにもう少しだけ重みがあっても良い気がすること、路面の細かい凹凸をもう少し上品に吸収してほしいこと。そして決定的にまずいのは、エクステリア(外装)ではフロントグリルとテールランプ周りの幼稚なデザイン。さらにインテリア(内装)においてはインパネ、ドア周辺、前後シート等の低レベルなデザインと質感。つまりプラスチック感、ビニール感丸出しの子供のおもちゃのような作りだったことである。車としてのデザインと質感については、フォルクスワーゲンの「ゴルフ」よりもさらに小型の「ポロ」と比較しても、ポロを100としたとき、オーリスには40くらいしか点を付けられないほどその差は大きい。もっとも1200+ターボになると、もう少し車内の質感は上昇するはずなので、次はそちらの方を見てみたいと思っている。

◆いずれにしても現在あるハッチバック車ではあまり荷物を積むことはできないので、来年(2017年)に発売になるとうわさのあるオーリス・ワゴン(欧州では何年も前から販売されている)に期待したい。ただ今の質感のままであれば当然不合格にするつもりだ。

2016年5月 2日 (月)

林 祥太郎 ギター・リサイタル

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◆今回、林 祥太郎氏のコンサートを企画された猪居信之さんに感謝しなくてはいけない。

◆彼は今回のリサイタルで、小品から大曲まで、そして懐かしい馴染の曲からめったに聴けない秘曲まで、充分なテクニックと、明瞭でしかも美しく粒のそろった音色で存分に楽しませてくれた。久しぶりにスペインから生まれたギターらしいギターを聴かせてもらった気がする。

◆<プログラム>
モンポウ:鳥の歌
リョベート:カタロニア民謡(盗賊の歌、王子、哀歌、聖母の御子)
トゥリーナ:タレガ讃歌(ガロティン、ソレアレス)
タレガ:エンデチャ、オレムス(敢えて〝哀歌と祈り”と記してあった)
ソル:グラン・ソロ

E.サインス・デ・ラ・マーサ:プラテーロとわたしより(狂人、屋上)
                              暁の鐘
マネン:幻想ソナタ
ガスイ:ムッセールの情景(レス・サレレテス、鴉の岩)

◆気分が乗りきらないうちに弾き初めてしまったのか、一曲目の〝鳥の歌”が始まってすぐに左手指の押さえミスによる若干のもたつきがあり、「技巧的には大丈夫か?」と一瞬その技量を疑ってしまったが、そのアクシデントによって本人も目が覚めたのであろうか、その後はどの曲にもまったく危なげない充分なテクニックを見せ、安心してその音楽に浸ることができた。
そして特筆すべきは年齢に似合わぬその豊かな「歌心」である。適切なスピード感に過不足のない情感を乗せて奏でるその音楽には、聴き手に与える満足感としては充分なものがあった。

◆トゥリーナの〝タレガ讃歌”は今回久しぶりに聴いた気がするが、この曲などはもっとコンサートで弾かれるべきではないだろうか。過去に録音されたものとしては、若きジョン・ウィリアムスやブリームの演奏があるが、それらと比べても一歩もひけをとるものではなく、むしろガロティンのリズムのとり方など、私としては今回の演奏の方を取りたいと思う。
またタレガの白鳥の歌ともいえる〝哀歌と祈り”も、瞬間思わずホロリとさせられたし、次に来るデ・ラ・マーサのトレモロには息をのむような美しさがあった。

◆最後の2曲、特にマネンの作品については、私も実際耳にしたのは今回が初めて。うわさに違わぬかなりの大曲なのだが、少しの破たんもなく最後まで弾き切ったのは見事であった。しかし次のガスイという作曲家の作品同様、その作品のもつ芸術性としてはどうであろうか。セゴヴィアに捧げられながらも、これまで演奏される機会があまりにも少なかったことの原因をその難易度故と決めつけるのは少しばかり無理があろう。同様の大曲となれば、トローバのソナチネあたりをもってきてもよかったような気がするが。
さらには、あくまでも私の個人的な感想ではあるが、リサイタル全体にわたって、もう少しばかり音色の多様さがあっても良かったのでは、という気がしないでもない。(但しこれは演奏者の思いとか好み、あるいは主義主張の問題なので、決して私が要求できるものではないが)

◆しかしながら技術、音楽性ともに充分備わっている彼の演奏には今後も注目をしていくつもりだ。そこで難しいことかもしれないが、これからは聴き取り難いトークに神経を使うのではなく、ステージに立っただけで人を惹きつける、何か「華」のようなものを身に着けていってもらいたいものだと思うがどうであろうか。

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